君が何者でも君は愛されていたんだよ
彼女にとって私の夫はひ孫にあたり、私の息子は玄孫にあたる。
霧雨の寒い5月。
昔ながらの古い農家そのものの、代々の位牌が並ぶ黒い柱のその家に、初めて息子を連れて行った時、すでに口数も食欲も少なく動きも最小限になっていた彼女は、長座布団に横たえた赤子に膝を使ってにじり寄り
「風邪ひかせちゃあなんねぇどぉ」
と何度も繰り返し、柔らかいバスタオルをかけ、何度もそのバスタオルを微調整してくれた。
次の月、息子のお100日に行くと、その短期間で彼女はオムツを付け夜中に徘徊するようになっていた。
それでも赤子をそっと抱きしめ、しばらく顔を眺めていた。
また次の月、彼女はもう病院のベッドの上で、大勢の子や孫、ひ孫に囲まれて、ずっと眠っていた。
そしてその次の週に、静かに息を引き取ったという。
私の息子は、彼女が出会えた、たった1人の玄孫にあたる。
この子を抱いたあの日、何を思ったのだろう。
この子がこの子だって、わかっていたのだろうか。
「玄孫を抱く優しい顔に懐かしさを感じたのは、私達も同じように愛されたからでしょう」
息子の大叔父、彼女の孫の、弔辞がそうなら、そうなんだろう。
君が何者でも、君は愛されていたんだよ。